日記及び生存戦略情報記載用ライフログ

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捕らぬ狸の皮算用

世の中、不要な事と必要な事の境界線ってのは、何処なのでしょうか?

 

自分という人間は過去に色々ありまして(過去に何もない人間も居ませんが)、考え方の一つに「「捕らぬ狸の皮算用」は無駄なので不要」と言うモノがありました。

 

特に三十代中盤、つい数年ほど前くらいから余計にそれが強くなり改めて考え直そうともしていなかった。

 

ここに書いたかどうか忘れたが、現在無職です。前の仕事は労働条件や環境や同僚に耐えかねて9月末に辞めました、仕事内容は別に嫌でもなく続けられるものだったけど、取り巻く環境がとにかく悪く、それの改善の様子もないし、何より同僚が人間としてとにかく性が合わない。すごく柔らかく書いてますが、かなり精神的にやられてしまい辞めました。愚痴はともかく、その状況(働いていた時)の中で、状況に流されてたこともあり、自分の考えを見つめ直すとか考え直す時間を作ろうともできなかったし、そこに考えすら至らなかった。

 

前置きが長くなったけど、捕らぬ狸の皮算用とは下記のようなことらしい。

 
まだタヌキも捕らえていないうちから、タヌキの皮を売って儲ける計算をすることから。 タヌキの皮は防寒着として、昔は高く売られていたらしい。 「算用」とは、金銭の額や物の数量を計算するという意味。 「捕らぬ」は、「取らぬ」「獲ら」とも書く。

捕らぬ狸の皮算用 - 故事ことわざ辞典

kotowaza-allguide.com/to/toranutanuki.html
 

 

 

 

 

 

 

 

当たり前だが、要はアホ言ってないで稼いでから考えろ、ということだという解釈でいいと思う。

 

個人的にこれを徹底しすぎてしまい結果的に「無欲」になってしまった。

実際はアレコレ欲しいとは思うものの、収支を考えるとそんなこと(欲しいものなど)考えるだけ無駄だと感じて物欲と現実がストレスになり、誰かに咎められている気分になってしまった。

 

私生活にストレスがある状況で、普段の思考の中でもストレスが生まれるってのは、もう逃げ場がなくなる。どんどん追い込まれてしまう。そうこうしている内に、やることなすことが全てが、中途半端で中身の薄い結果になり、それがまたストレスになり…。エンドレスワルツである。

 

で、無職・無収入になり時間だけはあるので色々考え、自分の内面を考える事に向き合えるようになって一つ感じたのが「捕らぬ狸の皮算用でいいやん」って事だ。

 

人間の原動力ってのは色々あるけど、今の社会に生きるってのは「消費と浪費」が人生の9割で、気がつけばその為に生きている。

 

「生きる為に働く」じゃない。

「得る為に働く」でもない。

 

「得る為に」とほんの少し違う「消費と浪費をする為に働く」に軸がほんの少しズレてソレが当たり前になってしまっている気がしてならないし、実際なっていると思う。

 

「目的が手段に~」だの「手段が目的に~」みたいな言い換えができるだろうが、それらの言葉でも、他人に自分の考えや感じ方を「言葉で伝える」のは難しいモノだ。

 

「アレが欲しいから働こう、いくら貯めよう!」ってのが、「いくらあるからアレを買おう」に変わり「アレなら変えるからアレでいいか」に気がつけば変わってしまう。これは結構微妙な差だし、生活が優先される中でごく当たり前の「選択」なんだけど、これが当たり前になると「本当に欲しいもの」が解からなくなっている事にすら気が付かずに消費と浪費を繰り返す。

 

自分では欲しい物を買っているつもりが、気が付けば手元に何も残っていない。お金だけ無くなっている。しかもソレは自身の経験にフィードバックもされていない。そんな状況の中で生活して生きている事に気がつけもしない。

 

妙ちくりんなことを書いているが、ふとそれに気がついてしまった。

そして至った考え方の改善が「捕らぬ狸の皮算用でもいいやん」って事だ。

 

消費と浪費も目的だの質だので、人生を変える。気がつかない内に、変な軸の方でクルクル周りだすとなかなか止まれなくなる。

 

だから、欲しい物を目的にして「捕らぬ狸の皮」を計算するのも、一つの方法じゃないかな。