日記及び生存戦略情報記載用ライフログ

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【自炊のススメ】社会人は "食"を大事にできる人は、より良い生き方ができる【切っ掛け】

   

■ さて先に宣言しておこう、「社会人は "食"を大事にできる人は、より良い生き方ができる」

 季節は春を迎え、新卒・新社会人野門での時期。これから「一人暮らし」を始める若人が7月くらいまでは四苦八苦しつつライフスタイルの確立に挑む事でしょう。  近年「弁当男子」と囃し立てられていた「弁当を自分で作ってくる男性」が不況下と言う事で話題になりましたが、何故話題になったのか?それは現代社会において「食への関心が薄くなった」からわざわざ話題になったんじゃないか?と感じています。「飽食社会」でコンビニに行けば "ほぼ24時間"なんかしらの弁当など、「自分で調理する手間の無い食べ物」を手に入れる事ができます。 (以下長文なので折りたたみます。)

 

「腹減った、コンビニ行ってくる」

過去の自分もそうですが、労せず食にありつく事が増えると、当たり前に「食べ物=買う物」になってしまい。その結果人間の進化で重要だったはずの「食への関心」薄くなったんじゃないでしょうか?そしてそれは「金があれば手に入る食事=食の価値」になってしまっている気がします。  2008年からの不況で、コンビニやスーパーは「激安弁当」と言う物を全面に押し出して展開しています。これは不況下で「消費者のニーズに応える形」のように見えますが、実際は消費者の財布の紐が固くなり、売り上げが伸び悩んだ結果、コスト削減することで販売価格も下げ調整した結果おまけとして「激安弁当の売り文句」が表に出てきただけです。  実際自分は愛知に来てから少なくとも5年は自炊禁止の寮だったこともあり「コンビニ弁当生活」をしていました。  2010年現在の「コンビニ弁当」は2005年の頃と比べて価格は多少下がってますが、弁当の内容は更にその下を行く下がり方をしてます。不況前と不況後だからと言う問題じゃなく、同じ「のり弁当」でも398円で唐揚げ一個、白身フライ1枚、ちくわの磯辺揚げ半分、コロッケ半分入っていた弁当が、315円になって唐揚げ半キレ、白身フライ半キレ、ちくわの磯辺揚げ1/3キレ、コロッケ小ぶりなのが半分、更にご飯量も少なくなり弁当箱自体が若干小さくなってたりします。約80円価格を下げると、内容がこれだけ変わってきてる。  問題はそれに不満を抱きながらも「当たり前に買って食べる行為」の方だったりします。食の価値はそんな程度なのですか?「金額=弁当の内容(食の価値)」ってなんかおかしくないですか?  自分はそれに気が付いて更に自炊環境が手に入った事もあり「コンビニ弁当脱却」を遂行中です。勿論完全なる自炊生活ってのは現代社会で生きてる上で無理が高いので、時間がなかったり、ちゃんと興味を引いたりした弁当は食べますけどね。  上記の「コンビニ弁当」に関してだけを読むと「内容に文句あるならコンビニチェーンに言え!」と受け取られてしまいそうですが、言いたい事はここからです。ここからがタイトルの「自炊のススメシリーズ」になります。(前置きが長いですか?ゴメンねw)  

何故?「社会人は "食"を大事にできる人は、より良い生き方ができる」なのか?

 実例というか経験談を少し書きましょう。先にも書きましたが自分は「コンビニ弁当生活」と言う物を少なくとも5年強は続けていました。それは自炊禁止の寮生活と言う事もあったのですが、仕事終わって帰りにコンビニ行って「ビール500ml×3と弁当1つ」買って帰り、ネットしたりアニメやバライティ番組見たりしながら食べて呑むのが楽しみの一つでもあったからです。自動車製造という肉体労働でしたから「労働の後の晩酌」はやはり心地よい時間だったんですね。  そんな生活が長く続けていて、少しずつ変化が見えてきました。  まず「太った」。これは20代前半なら食の量の問題でしょうが、20代後半は食がだんだん細くなりだして「弁当1つで軽く食べ過ぎな食事量」になってきてたにもかかわらず「太った」んです。太った事に関しては他にも要因があるでしょうけど(自分の場合は運動不足)、目に見える大きな変化の一つでした。  「疲れが抜けにくい」これも最初は「歳のせいか?」とか思ってたのですが、後々自炊生活するようになって「コンビニ弁当生活のせいだったのか」と気が付きだしました。  「食べたい物が無くなってきた」、食欲がないのでは無く「関心が無くなった」に近い症状。「どうせどれ食べても一緒だ」とそれこそ「食への関心が薄くなった」  以上の変化に少し気が付きだした折、自炊生活と言うよりも「食への関心」に気が付く切っ掛けがありました。それは職場の忘年会で泊まりがけで福井まで行ったときのことです。  勿論忘年会ですから、大宴会です。豪華な日本海の魚料理を目の前にして、普段食が貧相な自分は大喜びで新鮮な魚の刺身やら唐揚げやら口に運び「おいしい」を連呼しましたよ。そしてビールをどんだけ呑んだか判らないほど、浴びるように呑みましたww  宴会も後半になってふと卓の上を見ると、自分が「おいしい」と連呼してた食事はこういった席で酒が進むと誰も手を付けなくなるんですね。結構な量が余ってるんですが、誰も手を付けないし自分も食べれない。その状況と目の前の食材を見て「もったいないな」という気持ちが一瞬湧いてきました。ですが宴会の席ですし酔ってますからあまり気にとめずその日は騒ぎまくりました。  そして翌日、案の定全員グロッキー状態で起床し朝食へ。重度の二日酔い状態で普通なら朝食は回避もしくは「少しでも食べないと後がキツイ(二日酔いの時は胃に物を入れた方が回復が早い)」という二日酔い対策がてら、渋々食べるのですがこの日は違ってました。  このときは民宿にお世話になっていたのですが、ここの朝食がメニュー的には記憶に残らないほど単純なメニューでしたが痛烈に「美味しい朝食だった」という印象だけが記憶に残ってます。実際重度の二日酔いにもかかわらず、気が付けば「ご飯3杯おかわり」した所で「宿側の用意してたご飯が無くなりました」と言う状態でした。自分だけじゃなく他の人間も同じ状態だったらしいww  その後、通常の日常に戻った時に「あの朝食は美味しかったなぁ」度々思い出している自分に気が付きました。そしてなんでそんな事考えるようになったのか?更に遡る事数年前、テレビ東京系の番組で「たけしの誰でもピカソ」だったと思うのですが、「自殺志願者に黙って食事を食べさせる事で自殺を思いとどまらせて居る方が居る」と言うのを放送していたのを見たからです。自殺志願の理由も何も聞かずに黙ってご飯を造ってあげて食べさせる事、食を通じて生きる事を、命の大事さを知って貰いたいと活動なさってるとか。  そんな事に感心と感動をして更に思い返すと、自分は小さい頃「世界にはご飯が食べれなくてひもじい思いをしている人達が沢山居るんだよ」と言い聞かせられながら育ってきたのを思い出しました。駄目人間な自分は、そんな大事な根底的な事すら忘れて生活していたのです。多分忘れてしまっていたのは、近年TVメディアでは、その事実に触れない。自分がそう教わって居た時期は確か、TVで盛んに「アフリカの恵まれない子供達」などを題材にした番組をやっていた時期でもあったんですよね。この現実ってのは、とても大事な事実であり、現代日本社会の「食の関心・食問題」と切り離して考える事自体間違っている気がします。  食べたくても食べれない環境にいる人達が居る事実、自殺行為すら辞めさせる特別な食事じゃなくただの手作り料理、そして自分が体験した「美味しい朝ご飯」。そして「飽食の日本社会」。これは何にも変える事のできない大きな価値を持った事実であること、それを見聞きし体験して「食への関心」が一気に高まり同時に「食と生き方」を考えるようになってきました。  上記の経験などから、その関心の行く先、行き着いた答えの一つが「社会人は "食"を大事にできる人は、より良い生き方ができる」と言う事。そしてその為に大事になってくるのが「自炊生活」と言う本来当たり前の「生活習慣」だと思うので「自炊のススメ」をこれから少しづつ記していきたいと思います。